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ー第1章ー 3.萌芽

Author: 土浦タカ
last update publish date: 2026-08-14 12:10:50

 イレヱヌは結局、恋愛も夢も、自分に出来ることさえも曖昧なまま歳を重ねていった。勉強だけは頑張り、先生に褒められる事も多くなる。手紙や電話でジャンヌ、エドワアドにも褒められた。其れは勿論嬉しい事なのだが其れだけだ。自分は勉強が出来るようになれば満足出来るわけではない。

 いい加減先の見えない未來や終わりの無い勉強にも疲れはててデエトに誘われるまま気紛れに何度か行った。しかしやはり想像通りというべきか詰まらない、アンニュイな気分にさせるものだった。例え流行りの映画を観ても、ディナーをしても(此れなら独りで勉強をして過ごす方が良い)毎回結論はここに行き着く。そして相手に予習、復習を理由にデエトを早めに切り上げたいとやんわりと伝えると「イレヱヌは真面目だね」と笑われる。何故かその言葉は堪らなくイレヱヌの神経を障った。

 イレヱヌをデエトに誘う相手は自分を実際より大きく見せようと見え透いた張りぼての虚勢を張りたがる脆弱なプライドの持ち主ばかりだった。大した実力も実績も無い人間には有りがちな事だ。しかしイレヱヌからすれば継ぎ接ぎだらけの虚栄の人間との会話は自慢話ばかりで空っぽな退屈極まりないものだった。

 此れならセシルと小説や映画の事などで会話に花を咲かせる時間の方がよっぽど楽しい。そして相手は自分の事を好きな訳ではない。単にイレヱヌの姿だけ見て自分にとって都合の良い偶像を相手に妄想をしていただけに過ぎない。少しでも気持ちを楽しいものにしたいと“昼下がりの情事”のオードリィ・ヘップバアンを真似てジバンシィのバックに二つリボンの付いた白のノースリイブドレスに白のショートグロオブを着けたのだが、結局「何でこの人とのデエトだけのためにこんな格好したんだろう」と堪らなく後悔した。

 (セシルに会いたい)その思いで頭が一杯になる。二人でお洒落をしてカフェに行き“キャンディ”や“醜い亜米利加人”について話したくて堪らなくなった。其の日のノオトにはデエトの服装、映画の内容を書いた。次いでに「あと一時間で世界が滅ぶとしたらもう一度同じ様に過ごす。永遠みたいに感じるから」と書くことも忘れなかった。女子寮の談話室で瑞西人のアンヌ・ベッソンと英吉利人のジュリエット・サンダースにその話をしたところ二人に大笑いされてしまった。

 自分は特に夢というものを持つことも無く、シリルが言ったように特に好きでも無い相手と結婚するという運命を辿るのかもしれない、とイレヱヌは思った。(でも、きっとパパは其れを望んでサン=ポウルに入れてくれた。其の道を選ぶのは間違ってはいない)そう自分に言い聞かす。此れと行った特技が有るわけでもない自分にとっては“正しい生き方”の筈だ。たとえ、実家の“パーティー”のような何かを演じなければならない人生であろうと。誰かが其れを望むのなら。そもそも自分達のような上流社会ハイソサエティ出身でなくとも、大抵の女性は二十代前半で結婚し家庭に入るのが当然だ。どうせその未來が待っているなら、今からデエトを重ねて恋愛をしようとするのは間違ってはいない筈だ、と自分に言い聞かせた。

 シリルは前のようにイレヱヌに突っ掛からなくなった。顔を合わせるとたまに棘の有る言葉を吐くものの、喧嘩になることはなくなった。セシルがシリルの変化を不思議に思っていたため、「セシルが言ったように少しは成長したってことじゃない?」と笑ったところセシルは口角を片方だけ上げた笑い方をした。此の笑いをセシルがするのを見るのは初めてだった。此の笑いは時々英吉利イギリス出身者がしているのを見たことがあった。

「ねえイレヱヌ。今度の休日またデエトするんだって?」伸びてきた髪をバンダナで纏め、水玉柄の裾の広がるワンピィスを着たロカビリィスタイルのセシルが“エマニエル夫人”を読みながらそう訊いてきた。今日はイレヱヌがセシルの部屋に遊びにきた。セシルの部屋は面白かった。マリリン・モンローのポスター、宝石を散りばめた異国風エキゾチックな衣装の女スパイ、マタ・ハリの写真、“二十世紀で尤も衝撃的センセエショナルな家具”と言われたメイ・ウエストの唇ソファのレプリカ、本棚にはフランツ・バイロスの画集、悪徳の栄えに、美徳の不幸、エルビス・プレスリイ、クリフ・リチャアド、プラタアズ等のレコオドが並べられている。自分にとって慣れ親しんだ物から初めて見るものまで溢れ返っていた。

「え?誰が言ってたの?」「僕のボオイフレンドが噂してた」何故かセシルは少し不機嫌そうだ。

「あんなに興味ないって言ってたのにどういう風の吹きまわし?」何となく責められている気分になり少しムッとする。そもそも恋愛は楽しいという話をしたのはセシルの方なのに。そう思って、

「セシルを見てて少しは興味が湧いたのかもね」とちょっとした意趣返しとしてそう返す。

「僕の影響か。そっか」セシルは俯いた。何時も明朗なセシルが何故か少し寂しそうだった。そういえば、セシルは最近余りボオイフレンドと一緒に居るところを前ほど見なくなった。もしかして少し寂しかったのかな、と推察した。

「セシルこそ、今のボオイフレンドと良い感じなんじゃないの?」自分の方ばかり質問されるのは少し居心地が悪かった。セシルに質問の矛先を向けると「全然」と退屈そうに煙草を吹かし窗の外を眺めがらセシルは答えた。空はどんよりと鉛色に曇っている。窗際の卓子テェブルにはマイセンの貼花装飾が施された花瓶が置かれ、金糸雀カナリア色の薔薇が生けられていた。少し時間が経っているのか薔薇は生命力が感じられずシルクのようになっていた。

「年上なのに凄く子供っぽいんだよね。彼って。正直もう飽きてきちゃった。イレヱヌと遊ぶだけで文句を言われることが多くなってきたし」セシルにとっては珍しい事では無かった。男の子に限らず女の子相手でも何時も其の調子だった。

「あたし達、あんまり一緒に居すぎない方が良いのかも」ふとイレヱヌがそう呟くと

「何で、そんな事云うの」セシルの目が射貫く様に鋭くなる。光を当てた小刀ナイフの刃先を思わせた。気圧されつつ「だって、此のままだとセシルはあたしのことが原因で破局する時も有りそうだし」勿論それはイレヱヌにとっては寂しいものだったのだが、お互いのためを思っての提案だったため、セシルが不機嫌になるのが意外だった。

「そう。イレヱヌは其れで良いんだね」そう言うとセシルは黙りこくる。セシルと二人きりで此れ程居心地が悪くなるのは初めての事だった。

 明くる日セシルがボオイフレンドと学院の中庭で喧嘩をする姿を見てしまった。花が鮮やかに咲き乱れ噎せ返りそうなほど芳香を放ち、心地良い流水音を立てる噴水やベンチのある中庭は何時もは生徒達の憩いの場だが、其れには似つかわしくない剣呑な空気が漂っている。会話の内容は分からないのものの、言い争っていることだけは伝わった。セシルがぶたれてしまい、イレヱヌは悲鳴をあげた。するとセシルは足で相手の腹部に蹴りを入れ、体が前のめりになったところで頭突きを食らわせた。今まで意識をしなかったものの、セシルは確かに男の子だった。

「イレヱヌ、いたんだ」にっこりと笑いかけて駆け寄ってきた。

「顔、大丈夫なの?」恐る恐る訊いてみると

「此れくらい平気平気!」セシルはけらけらと笑って答えた。ほっと息を吐く。人がぶたれるところなどイレヱヌは生まれて初めて目にした。

「ボオイフレンドと喧嘩しちゃったの?」イレヱヌが心配をすると

「ああ、もうボオイフレンドでは無くなったよ」何てこと無いようにセシルが答える。何と返せば良いのかも分からず「そっか……」とようやっと相槌をうった。

「僕とイレヱヌの仲が怪しいって」ふふっと笑いながら煙草に火をつけ、セシルが続ける。

「そんな」イレヱヌはショックを受ける。自分のせいでセシルは恋人に責められてとうとう破局をしてしまったのだ。

「誤解だって分かって貰えなかったの?」誤解をとけたらもしかしたらまた元通りの仲になるかもと期待をしながら訊くと「誤解は解いてないよ」「そもそも誤解って訳でもないし」

 予想外の返答が返ってきた。セシルの言葉が理解出来ない。誤解ではない。誤解ではないとはどういう事だろう。目を丸くしていると

「ねえイレヱヌ、何も気付かないままなの?」するり、とセシルの柔らかな白い掌がイレヱヌの頬を包む。微かに煙草の薫りがした。

 「僕が誰かと接吻キスしたりデエトをするのも何も感じない?」すっと顔が近付いてきて鼻先が触れあう。セシルは少しだけ拗ねたような、甘えたような表情をしていた。「僕はイレヱヌが誰かとデエトをしていたの、凄く淋しかったんだよ」そう言うとそっと唇を重ねてきた。イレヱヌは両親以外と接吻キスをするのは此れが初めてだった。最初は何をされているのか認知出来なかった。セシルの睫毛一本一本が見えるほど顔が近付いたと思った後に唇にギモオヴのような感触を感じる。ようやっと自分は今セシルに接吻キスされているのだ、と認知した。

顔が一瞬で紅潮し頬は熟れた林檎のように紅く染まる。その場で膝から崩れ落ちてしまいそうだった。

 その日の内にこの出来事は校内に広まったらしい。セシルは校内では(主に悪い評判で)有名だったし、イレヱヌもかなり目立つ容姿だったことが噂の広まりに拍車をかけたようだ。好奇の目に晒される事は勿論辛かったが、其れ以上にイレヱヌの頭を悩ませたのは自分は今までセシルの事を一番気が合う親友としか認知していなかったことだ。セシルの事は友達として好きだ。接吻キスされたのが厭という訳ではない。しかし、其れだけで此れから自分達は恋人になるのだろうか?ちゃんとなれるのだろうか?靄のかかった未來にイレヱヌは不安を感じていた。

「お早うイレヱヌ」今日もビュッフェでセシルから挨拶をされる。今までは朝は遅くて朝食どころか授業をすっぽかすことも珍しく無かったセシルが最近は朝早く起きてイレヱヌと朝食を摂るようになった。その内また元通りのなるだろうと思ったものの、今のところその気配は無い。案の定カトラリイを使う音や和やかな談笑の気配を掻い潜って彼方此方から視線を感じる。ビュッフェは牛酪バタァの甘い香りや焼きたてのパンの香ばしい香りに包まれており、何時もは深呼吸したくなるほど大好きな場所だが、最近は針のむしろ同然だった。イレヱヌは居心地が悪くて仕方がなかったが、セシルはまるで気にすることも無く無花果と乳脂クリィム乾酪チィズのタルティイヌを頬張っていた。イレヱヌは食欲が湧かないため、プリンス・オブ・ウェエルズの紅茶にエヴァミルクを入れたものと、フロマアジュ・ブランに苺ジャムをかけたものだけを食べた。「イレヱヌったら其れだけで足りるの?」「食欲無いもん」溜め息を付いて食事を終わらせる。早く周りの視線の感じない所へ移動したかった。「あ、待って。僕ももう少しで食べ終わるから」セシルは何故周りの視線を気にせずにいられるのだろう、とイレヱヌは不思議だった。セシルはとても目立つからこの様な状況は慣れっこなのかもしれない。

  一人になりたくて図書館で過ごしていると

「お前、あいつと付き合うって本当かよ」

 シリルに声をかけられる。少し不機嫌なような、そうでも無いような微妙な表情だ。(尤も亜米利加人のセシルに云わせれば英吉利人と仏蘭西人は何時も少し不機嫌そうに見えるらしい。英吉利と同じ扱いとは仏蘭西人としてはやや不名誉に感じられた)

「え?誰が云ってたの?」「ヘンリイとエドガアから聞いた」

ぶすっとした顔でシリルが答える。(きっと学院中に広まっているんだろうな)そう思うとイレヱヌは堪らなく憂鬱だった。自分の事で精一杯になっている時なのに、何故更なる悩みが増えてしまうのだろう。イレヱヌは頭が痛くなってきた。

「お前、あんなオカマ野郎と結婚するのかよ?」シリルの言葉にイレヱヌは目を見開いた。

「えっ結婚…」「お前が云ったんだろ。結婚は好きな相手とするって」そもそも、セシルの事は恋愛感情でも好きなのかさえ未だ分かってはいないが其れを云うとややこしくなってしまうと思い、

「だいぶ先の事だから其れはまだ分からない」とだけ返した。

「だいぶ先では無いだろ。女は二十三前後で男は二十五辺りが結婚適齢期だ。俺達はあと十年くらいしか時間が無い」「まだ十年も有るじゃない」「十年なんてあっという間だ。俺の一番上の兄貴は二十歳だけどもう|婚約者《フィアンセ》がいるし、下の兄貴は今年十八だからデビュタントバルでキャバリエ役をする。婚約者フィアンセ候補を探すためにな」シリルは淡々と話し続けた。榛色ヘーゼルの眼はくすんで枯葉の様に見えた。「あっという間に其の時が来る」

「其れはそうだけど」イレヱヌは俯いた。そんな事考えたことも無かった。「結婚なんて遠い未來の事としか思った事無かった」

「そうか。じゃあ今の内から真剣に考えろ。誰だって何れはしなきゃならないものなんだよ」

(“しなきゃならない”本当にそうなのかな)シリルの言葉にイレヱヌは引っ掛かりを覚える。ふと、

 「じゃあシリルはどういう人と結婚したいって理想はあったりするの?」と訊ねた。

「資産が有って、其れなりに気に入った見た目の奴とする。恋愛は結婚した後に家の外でする」吐き捨てるような声で云うと続けて

「俺にとってはそういうものだという認識だ」

余りの前時代的で歪んだ価値観を聞いてしまい「最低。昔の王侯貴族みたい」と顔を歪めて云うと、ふふっとシリルは吐息のような笑い声を漏らした。「本当にな」「普通、そう思うよな」独り言のように言葉を漏らした。シリルは今まで一体どういった人生を歩んでこの様な価値観が形成されてしまったのだろう。イレヱヌは心配になってしまった。

 (セシルと結婚をする……)想像したことも無かったが確かに此のまま恋人として付き合い続けるのなら何れはそうなる。厭だとは思わないが、セシルのタキシードは想像が付かなかった。やるとしたらセシルがドレスでイレヱヌがタキシイドは出来ないのかな、とふと思った。

「セシルは、あたしと結婚したいって思ってる?」自室のベッドに寝そべりながらイレヱヌはセシルに聞いた。

「ええっ」セシルは目を丸くした。突然こんなことを聞かれたら当然だ、とイレヱヌは納得する。

「まだそこまで考えてはいないよ?だいぶ先の事だし。急にどうしちゃったの?」

「シリルと今日話したの。シリルは将来好きでもない人と結婚するんだって」

「へー。彼奴そんなこと言ったんだ?」にやにやと笑った。チェシャ猫を思わせる笑い方だ。

「彼奴まだイレヱヌの事諦めて無いのかと思ってたけど……結局なにもせずに指咥えて見てるだけかもね?」

「そもそも、其れは勘違いかもしれないじゃない」「ええっまだそんな事云うの?」セシルは信じられない、という顔をする。

「ていうか、彼奴に好かれる様なことした憶えも無いし……」とイレヱヌが呟くと

 「なに言ってんのイレヱヌ。美しいって其れだけでとんでもなく強力な武器なんだよ?僕だってイレヱヌがとんでもなく美人だから仲良くなりたかったし恋人になりたいって思ったんだし」イレヱヌはその言葉にふと気になり、「もしかしてあたしって……見た目以外取り柄の無い人間なの……?」と思わず呟いた。「あはは、そう聞こえた?」「好きになった切っ掛けは見た目!でも好きな理由は其処だけじゃ無いよ」にこっと笑って顔を覗き込んだ。「意外と傷付きやすい所とか、小説だったり映画や芸術だったり色んな事に詳しいから話してて楽しいよ。あと周りからは大人っぽい女の子だって思われがちだけど、ルルと遊んでる時は子供っぽくなって可愛いし」つらつらとセシルの口から挙げられていき、イレヱヌは顔が紅くなり熟れすぎたトマトそっくりになった。今まで“美しい”と褒められたことなど数えきれないほどあったが、此れ程つらつらと褒め言葉を並べられたことは無かった。

「そっか」顔を上げられない。相槌を打つのがやっとだった。「だからねイレヱヌ。イレヱヌは安心して僕の事好きになってくれて良いよ」「僕はイレヱヌの事恋人として好きだからね」セシルはウインクをして笑いかけてきた。

 セシルは未だイレヱヌが自分の気持ちを量りかねていることを分かっていたのだ。其処までセシルから愛されていたとはイレヱヌは全く気付かなかった。(ずっと自分の事でいっぱいいっぱいだったんだあたしは)自分の狭量さとセシルの愛の大きさに気が付き、反省する。(それでもあたしの事を好きと言ってくれるなら、あたしもセシルの事を好きになれる)イレヱヌはようやっと自分が納得出来る結論に行き着いた。

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